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朝、長女と散歩する

僕を育てるあさんぽ

2020/07/21

 

「うおー!」

いつもの雄叫びが始まった。

泣きながら体をぐねんぐねんさせて僕の体に巻きついてくる。

彼女はお腹が減っていた。

 

寝起き30分で空腹になるという、それはそれは凄まじい食欲だった。

離乳食を始めた8ヶ月ごろから食欲はすごかったが、卒乳をしてからさらに食欲は増えていっていた。

 

舞も寝起きすぐに作り出してくれるが、彼女の食欲スピードに追いつけなかった。

待てなくなると台所で動き回り、見事なブリッジを決めて頭を食器棚の角や床に突撃しようとする。

こうなったらもう家にはいることはできなかった。

 

気分を変えるか、もしくはバナナか。

でもなるだけ朝ごはんの前にバナナはあげたくない。

 

「どうしよう。今日も行くか」

という風にして、僕はあかりちゃんと朝、お散歩に出かけるようになっていった。

それがだんだんと続き僕らの日課になり、晴れている日はほぼ毎日あかりちゃんと散歩に行くようになった。

あさんぽ風景

「あさんぽ」

そう僕は呼んでいる。

 

あさんぽが始まったのは、あかりちゃんがまだはいはいをしていた時期で、ベビーカーに乗って家の近所を30分~1時間ほど歩いた。

 

最初の頃は

「泣き止んでよかったー」

「僕もお腹減ってきたなー」

とか考えながら歩いていた。

 

でも日にちが経つにつれ、考えることをしなくなっている自分がいることに気づいた。

ゆっくり片足を出して、また別の片足を足してみる。

大地と触れる自分の足裏の感覚を感じてみたり、緑が広がる並木道から空を眺めてみたり。

歩くだけでこんなに幸せな思いでいっぱいになれた。

べビーカー揺らしながら歩くと、彼女はきゃっきゃと笑った。

 

あかりちゃんが歩けるようになってからもあさんぽは続いた。

これは、ベビーカーに乗っている時とはまるで別世界だった。

彼女が進みたい方向へ進み、立ち止まってはひたすら砂を投げて遊んだ。

一度抱っこちゃんになると、もう家まで降りない。

家までたどり着き、靴を脱がせようとすると「外に行きたい!」が始まったり。

こちらの思い通りなんて、今まで一度もなかった。

 

そんな思い通りにならない彼女といることで、勉強になることがあった。

 

一つ目は、

”無我夢中で生きれる”

 

1歳児は、今自分がしたいことだけを考えて生きている。

お散歩中は、目の前の草や虫のことだけ。

明日や未来なんてのは、頭の中には存在していない。

もちろん過去だって。

目の前に熱中して、お金のことも将来のことも、周りの人のことさえ考えていない。

その生き方をしているから、僕ら大人は子どもに惹かれるのだ。

 

おそらく周りに気を使ったり、将来の心配をしている1歳の子どもにはあまり惹かれないと思う。

まだ自分でできることは限られているけれど、

無我夢中という最大の魅力を武器に、周りの人に助けてもらいながら生きている。

笑顔でみんなに助けてもらっている。

それだけで生きれるのだと教えてもらった。

 

二つ目は、

”人は決して自分の思い通りにはならない。変われるのは自分だけ”

 

妻や子ども、家族、友達、同僚。

誰であれ人を変えることは決してできない。

変われるのは自分だけ。

自分が変われば、世界は変わる。

 

本の中では何百回も目にした言葉。

その言葉をこれほど体験できているのは、やはり子どもといる時だった。

 

あかりちゃんと毎日過ごす時間で、自分の思い通りになることはない。

お水を飲んで欲しくても、コップを逆さまにして全部こぼす。

歯を磨いて欲しくても、リビングの座椅子を磨いている。

 

ダメなことはダメと言うが、一緒にいて感じたのは、子どもを自分の思い通りにしたいと言う考えこそが1番の間違いだということだった。

 

僕らがやれることは教え育てると言うよりかは、導く。

導いて最終的に、自分で気づいて変わってくれたらと思っている。

 

僕はこれだけ一緒にいて、子どもを育てるなんて言えなくなった。

 

子供は勝手に育って行くし、大人が子どもに育てさせてもらう方だった。

 

”子育ち親育て”

この言葉が一番しっくりくるなあと思った。

 

28年生きてきたけど、子どもがいる生活はまだ

今日も僕は、どこに向かうかわからない彼女と歩き、生きる勉強をさせていただこう。

Photo & Written by 溝口直己

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